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Christian Journal

福音主義・キリスト教民主主義に立脚する日刊ブログ

憲法はまだか?

今年は日本国憲法70年です。
よく、「押しつけ憲法」か否か?ということが議論されますが、今から20年前に日本国憲法発布半世紀を記念してNHKで、超豪華俳優陣による特別ドラマ「憲法はまだか」が放送されました。凄い重厚なつくりで、現行憲法を右派が「押しつけ憲法」といい左派が「平和憲法」という理由のだいたいをつかむことができます。GHQ、日本国政府、極東委員会の3者が戦争が終わってからの日本の戦後体制をどのように形成するかで丁々発止の暗闘を繰り広げていたことがわかります。「終戦直後の戦争映画」ともいえるでしょう。ちょい役でも凄い大物俳優が出てたりします。で、どれも実在の人物に似てる人ばかりです。
脚本は大河ドラマなども何回も手掛けているジェームス三木さんです。NHKアーカイブスで無料で見れますし、ネット上の動画サイトにもアップされているのかな? とにかく、一度ご覧になることをお勧めします。

自民党改憲草案の本当危険性(3)

先述の、キリスト教的世界観を理解しようとしない、また近代民主主義国家として歩む上で最低限前提として受け入れなければならない天賦人権説を軽視してしまう日本人に、GHQはなんとしても天賦人権説を定着させようとしました。そして、

十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

憲法に書かれいてるのにもう一度、ほぼ同じ内容の97条を明記させたのです。しかも、97条には「基本的人権は、(中略)信託されたものである。」と受身形で書かれている。言わずもがな、信託した主体をキリスト者は知っています。天(神)が私たちに信託したのです。日本国憲法には、まるでエステル記のように明示されていない神が記されています。そして、自民党改憲草案は、律法の第二用益たる憲法から神を消そうとする種の反キリスト教的策謀といえます。全ての権威は神様から託されたものであると聖書にありますが、同時にその権力が神を恐れぬまま解き放たれる時、それは、黙示録に描かれた獣ののように振舞うことでしょう。

 本紙を読まれているクリスチャン諸兄が仮に国家が尊いものと考え、国家を愛していたとしても、それは、国家が、他の被造物とは別格の地位を与えられた「神のかたち」を保持する人を大切にしていることが最低条件です。大切な「人」を大切にするために国家が機能するなら、その限りにおいて国家も大切なものになります。尊い「人」を尊く扱う限りにおいて国家も尊くなります。天賦人権説を保持する国家はその限りにおいて、神の前に喜ばれるでしょう。しかし、天賦人権説をかなぐり捨てるような国家権力はもはや獣であります。

敗戦直前の我が国は自国民に「一億玉砕」と唱えたのである。国家が滅びれば、人は人でなくなるという「国賦人権説」という反キリスト教的原則を持ってしまっていたために、「国民の生命・財産を守る」という国家としての最低限の有体も失ってしまっていたのです。人の生命を犠牲にしてでも国家の存立を保とうとしたのです。もはや、そのような国家は近代民主主義国家とは言えません。9条改正も緊急事態条項の新設も、この延長線上に考えるべきことでしょう。97条をまるごと削除し、「我が党は天賦人権説をとらない」(片山さつき自民党参議院議員)といって憚らない人たちが主導する限りにおいて、彼らに改憲させてはなりません。憲法に記された明示されない神を消させるようなことをしてはいけないのです。

自民党改憲草案の本当危険性(2)

「国在らずんば、人、人足り得ず」という国賦人権説は、徹底的にキリスト教的世界観、価値観と対立します。
キリスト教的世界観というと仰々しくなりますが、要は

・神様を第一とする。

・人は第二とする。

・そして、それ以外を第三以下とする。人以外のあらゆる被造物はどれほど崇高なものであったとしても、人より優先されることもないし、まして神より優先されることもない。

という、世界観です。国賦人権説は、人の上に国が先立つ思想で聖書の世界観ともちがいます。国家がなかろうとも、人は人なのです。エデンの園に国家はありませんでした。しかし、アダムは人でした。創世記を持ち出さなくても、たとえば、どこの国でもない土地で(例えば南極で)どこの国の人でもない無国籍の人を殺せば、どこの国の刑法でも裁かれないことになります。確かに、国賦人権説をとれば、それは罪ではないことになります。この世の法的にはそうなるでしょう。しかし、信仰を持ったクリスチャンの倫理観に基づくなら「それはおかしい!」「ノー」と訴えるでしょう。国家がなかろうとも、国が滅びようとも人はなお構造的に神のかたちを保持した、人足り得るのです。人は人として尊重されねばならぬのです。

 

 

自民党改憲草案の本当危険性(1)

キリスト者が、政治に左右を超えて自民党改憲草案に頑強に反対しなければならないとすれば、それは平和主義を掲げた9条でもなく、硬性憲法を定めた96条でもなく、はたまた新設される緊急事態条項でもなく、ひっそりと削除された97条であるといえます。平和主義を掲げぬキリスト教民主主義国もあれば、軟性憲法をもつキリスト教民主主義国もあれば、緊急事態条項を保持するキリスト教民主主義国もあります。しかし、97条に書かれている、人権が至上性、不可侵性、永遠性を否定してはキリスト教的世界観を保持しえません。我が国は決してキリスト教国ではありませんが、敗戦の結果、神の配剤によって天賦人権説を憲法に明記するという知遇を得る国家となりました。これがどれほど大事なことか、日本に住むクリスチャンもその有益性に気づいている人は多くはありません。これがどれほどキリスト教的世界観をまかりなりにも保持する律法の第二用益として機能しているかを日本にすむキリスト者は再考すべきと言えるでしょう。福音宣教道半ばの日本のキリスト教会の拙い歩みを補うために、憲法が代わりに70年に渡りキリスト教的世界観を保持してくれていたのです。

第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

端的に言えば97条は国家より人が上に立つと宣言しているのです。国家は人の罪のために副次的にゆるされた制度であり、人は国家が存在する前から人であり、人として(神のかたち)として尊重されるべきものなのです。それはいかなる国家権力であっても人が人であることを犯すことはできないと宣言してくれているのです。仮に同条が存在しなければ、それは、近代民主主義社会を形成する上で欠かせない思想、「天賦人権説」を採択しないことになってしまいます。もし、人が人である理由が天から、神からのものであることを否定すると、人が人である根拠は何に由来することになるのでしょうか?天賦人権説を捨象すれば、次に、「人が人であるのは国家が保障するからだ」という国賦人権説を取らざる得なくなります。国家が存在しなければ人は人足りえないということになってしまうのです。これは、完全にキリスト教的世界観に対する挑戦です。(続く)

キリスト教に牙を剥き始めた中共、沈黙する日本の教会

先週末の時事通信の記事によるとキリスト教徒への弾圧が強化されているという。

日本のキリスト教界は、安保関連法案にばかり非難声明を出していますが、本当は同じアジアのキリスト者として、このことにこそ「非難声明」を出すべきだと思うんです。そのことこそアジアに仕える日本の教会ではないでしょうか?むしろそうしなければ、数十年後に今を振り返って「自国政府の非難に執心し、隣国の独裁政権を利するような行動をし、アジアのキリスト者の悲痛な声に耳を傾けず、アジアの教会としてアジア人とともに歩もうとしなかった」と評価され、歴史に汚点を残してしまうのではないでしょうか?

中国のクリスチャンは政府公認の三自愛国教会や非公認の地下教会(家の教会)を合わせ、中国全土で1億人ほどおり、共産党員(約8700万人)を上回っていると推定されます。

記事によれば中共政府はキリスト教会の屋根の十字架を無理やり撤去し、それに抗議するクリスチャンを浙江省で、拘束したりしているようです。同省温州市の政府系サイトでは、人権派弁護士の張凱氏(昨年8月に既に逮捕)が十字架撤去に抗議するようクリスチャンを裏で唆し、扇動したと報道しているそうです。また、同氏が司法当局に迫られ「社会秩序を混乱させ、国家の安全に危害を与えた」として「懺悔」したとする見せしめ的な画像も流されたようです。

 中国では経済成長に伴って貧富の格差が拡大し、精神的な支えとしてキリスト教にかぎらず儒教や仏教などの宗教に帰依する人は増えていて、2013年にHNKスペシャルでも「激動中国、さまよえる人民のこころ」として放送されています。

浙江省キリスト教の伸長が目覚ましく、警戒を強めた浙江省の党指導部は2014年初め以降、抑圧政策を強め、「違法建築」の名目で地下教会のみならず、公認教会の十字架の撤去にまで着手しています。十字架が撤去された教会はこれまでに1000件に達しているようです。

 

 

政局まで口出す牧師

列王記には善王としてヨシヤ王が描かれている、アッシリア帝国にも与せず、エジプト帝国にも与せず、聖書の神様であるヤハウエだけを礼拝しようとしたからだ。そう、聖書の中で彼が称えられているのは、反アッシリア政策、反エジプト政策をとったからだ。しかし、彼は若くして死んだ。死んだ理由は少々複雑だ。聖書によればエギプト軍に対しユダ王国の無害通行権を彼が付与しなかったことが死因だというのである。このときに限ってはエジプト軍に自国領内を通過させるという屈辱的な親エジプト政策を受け入れることが神の御心だったと聖書はいうのである。ユダ王国にとって、エジプトもアッシリアも独立を脅かす敵だった。しかし、この時最も危険になる可能性があったのは新興のバビロニア帝国だったのである。そう、エジプト軍はユダ王国を通過した後、アッシリア軍と合流し、連携してバビロニア軍と対決する予定だったのだ。ヨシヤ王が邪魔をしなければ、アッシリアバビロニア、エジプトが三つともが消耗戦をして、ユダ王国は安泰になったはずなのに、この時に反エジプト政策を堅持してしまったがばっかりに、バビロニアを利する結果になり、ユダ王国は彼の死後バビロニアによって滅ぼされてしまう。そう、信仰が厚くても政治オンチが国の滅亡を早めてしまったのだ。

 

 今般、左派系社会運動に熱心に取り組む一部の牧師が反自民共産党と手を組むように野党に働きかけています。これを全くの政治オンチです。自民党が下野したことは過去2回、いずれも非自民勢力が広く連携する一方で当該勢力が非共産を貫いたことによるのです。そうすることで自民党ハト派支持層を取り込むことが出来たからです。しかし、共産党と連携することは自民党が「反共」で結束を堅め、非自民勢力の中でも反共の人たちの離反をまねき、野党勢力がかえって分裂してしまう愚策といえます。かの牧師たちが、共産党との連携を呼び掛けているとの報を本紙でも受けた時、本当に残念に思いました。おそらく自分たちは共産党にアレルギーがない容共的な立場なんでしょう。しかし、それを口に出した時、結果的に反共的な人がどう思うかということを考えられない人たちなのです。政治とはリアリズムであり、自らが得たい結果を得る為にどのような手段をとるか自分の気持ちを訴えるばっかりで、それによって違う考え方の人がどのようなリアクションをするかを想像できない人たちなのだと思いました。これでは、自分の考え方に全く一致する人しかその集団にい続けることができなくなってしまいます。
  それに加えて、戦争法反対、特定秘密保護法反対は、特定の政策に、ご自身のキリスト教的信念から反対されているのですから百歩譲ってまだ良しとしましょう。しかし、共産党を含めた野党連携を呼び掛けるってどういうことですか?これはもう「政策」ではなくて「政局」にまで口を出しているじゃないですか?政治は複雑なのですから教役者の立場のまま政局に口をだしてはいけないと考えます。エジプト無害通行権を認めないことがバビロニアに滅ぼされることに繋がるのが「政局」です。「共産党との連携を呼び掛ける」という政局的な呼びかけが、自民の結束を強め、民主の分裂を惹起し、次の参議院で与党大勝に繋がることがになる・・・。自らも望んでいない結果に自らが招く手助けをしていることに気づかないのでしょうか?具体的には兵庫11区(松本剛明外相が離党した選挙区)と北海道7区(先日離党した鈴木貴子衆議院議員の選挙区)の安保法に反対するクリスチャンたちでさえ分裂させ傷つけることになっていることに気がついて頂きたいです

ハロー効果

病院や特養の職員向けの人事評価システムを作ったり、就業規則を作りなおす等に関わった経営コンサルタントいわく、そのような非営利組織の人事評価制度で大変に難儀したのは、考課する側(中間管理職)の訓練をしなければならないことだといいます。なぜなら、営利企業の「売上」のような目に見える客観的な業績がないので考課者に人事考課とは、お客様(ご利用者様)や組織にとって益になることをした部下に高評価をつけることであって、好き嫌いで評価をすることではないことを徹底しなければいけないからなのです。また、その評価について部下から異議を唱えられてもなぜそのような評価を下したのかを客観的に提示するスケールを持っていない場合もあります。加えて人間にはハロー効果といって認知バイアスがかかります。気に行った人間には「あばたもえくぼ」でますます良い評価をつけてしまい、虫の好かない人間には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」でますます悪い評価をつけてしまうのです。で、教会指導者が政治に意見を言うさいは、与党支持であっても、野党支持者であっても、この認知バイアス(ハロー効果)というものが、自分にも相手にもあることを前提に話す必要があるでしょう。そうすれば、インターネット掲示板でよくみかける「相手の言っていることが理解できない」というセリフが少し減って、互いの理解が深まるかもしれないと思います。>そして、このバイアスがかかるということは人が神ではなくて、誤りうる不完全な存在であることをクリスチャンならなおのこと心に留めておかねばならないのではないでしょうか。