Christian Journal

福音主義・キリスト教民主主義に立脚する日刊ブログ

パチンコ廃止と何故言わない!(1)

 

さて、私が地方で伝道する宣教師とお話をした時、宣教師から言われることがあります。

「日本は豊かであるはずなのにどうして公立病院がぼろぼろでパチンコ店だけネオンがチカチカしているのか?絶対におかしい。」

日本全国どこでも駅前の一等地にある施設です。日本にする私たちからすれば当たり前のような景色ですが、こんな施設、あるのは世界で日本だけです。日本のどんな地方でも民営賭博場が容認されているのです。昨日お話した廃娼運動がキリスト教社会運動として行われたのであれば、「廃パチンコ運動」が行われてもいいような気がします。正統的歴史的なプロテスタントは、この世界に偶然は存在せず、全ては必然であり、神様が一定のご計画を持って統治されていらっしゃるという考え方、摂理「providence」というものを信じています。であるならば、ギャンブルというのは自らの人生を運という不確かなものに委ねることはこの教理に反することは明らかです。

ましてや多くの国は賭博を禁止しています。例外的に認めているものも国や地方公共団体に多額の収益金が入るように法律で定められている公営賭博であり民営はありません。たとえば日本で認められている公営賭博の代表格、競馬について考えてみましょう。その売り上げの75%は払戻金に充てられます。胴元であるJRAに利益が過度に残らないように、馬券を買った人に4分の3は返還されるのです(それでも4分の3ですからね、確率論的に考えてもこんな割の合わない投資はないのです。)。次に残りの25%の内訳ですが、10%はJRAが儲かろうが儲からなかろうが、強制的に国庫に納付させます。「第一国庫納付金」とよばれています。さて、残り15%がJRAに入る訳ですが、この売り上げの15%から、職員の給料、競馬場の管理、騎手への賞金等々、必要経費を全て払わなければなりません。そして、利益が出るとその利益の半分は先ほどの「第一国庫納付金」とは別に「第二国庫納付金」として納付させられます。

つまり、競馬は売り上げの1割を国庫に納付させた上でさらに利益に50%という超高率の法人税がかけられているワケです。そこまでして、配当や収益を厳しく管理された上で特別に馬を競争させてその勝敗を予想するという形の賭博がJRAに認められているというわけです。この仕組み、競艇も、競輪もオートレースも似たりよったりですし、海外のラスベガスやマカオ等のカジノも基本は公営であり、日本の競馬と同様国や地方政府に収益金が回る仕組みがあります。しかし、胴元が民間で税率も一般企業と全く変わらない完全な民営賭博がパチンコです。パチンコ店にかかる税金は普通の企業の法人税のみです。しかも、店内でパチンコ玉がグルグルまわっているだけですから、売り上げも収益もいくらでもごまかせる(余地がある)わけで、かつては最も脱税がされやすい業態とまで言われていました。

 世界中でパチンコがあるのは日本だけであり、景観を乱し、風紀を乱しているのに日本の風景としてなじんでしまっています。本来ならこのようなパチンコこそ戦前の廃娼運動としてキリスト教会が取り組んでも良いものなのに、そうはなっていません。なぜなのでしょうか?

日本においてキリスト教社会運動が成功した例

キリスト教の牧師や伝道者は宣教活動に専念し、社会運動をするなという方もいるかもしれません。しかし、日本においてキリスト教だからこそできた社会運動があり、そのような社会運動に携わったからこそ、非キリスト教国の日本でキリスト教が一定の地位を占め受け入れらた過去があります。

戦前、女性のキリスト教団体である、矯風会や社会鍋で有名な救世軍等が中心になって廃娼運動というのが展開され、売春防止法が制定されました。それまでは公娼制度を行っていたのですが、キリスト教的な社会運動を愚直に訴えた結果、日本で売春防止法が制定されるにいたったのです。

「道徳とは時の多数派が良いと信じる事」だとある哲学者はいいましたが、性をはじめ道徳というのは周りに流されます。これは反面教師として旧約聖書士師記が教えているところでもあります。明治時代の性倫理について知りたければ試しに「伊藤博文 女」で検索してみたらいかがでしょうか?芸者を何人も手篭めにする我が国の初代首相、奥さんも女遊びを許可し、13歳の女の子にも手を出して、明治天皇が伊藤の女遊びがあまりに酷過ぎたので諫めたなんて逸話も出てきます。国のトップからしてそのような性道徳の国であったのであれば、世間一般の性に関する道徳は推して知るべしでありました。不倫をしたと噂されるイクメン議員は今日議員辞職しましたが、現代日本から見れば明治時代の性道徳は異常です。しかし、周りも同じような感覚を持っていればそれは異常には感じないのです。ましてや、女性が体を売ることが制度として定められ、経済的弱者である女性はそのような地位に貶められても、周りも本人も「仕方ない」それが「世の常だから」とされてきたのです。そんなおり、たとえ少数であっても聖書が指し示す基準を示し、現状の問題点を訴え続け、社会を改善していく、キリスト教社会運動の凄さであり、運動が良い方向に働いたときに強さと言えるのではないでしょうか?そしてこれは福音宣教にもきっとプラスに作用したでしょうし、福音派が社会運動をすること自体は全否定をしてはならないと考えます。

 

福音派のキリスト者が持つべき政治思想

本紙は指針として「キリスト教民主主義」を掲げました。これは、本来ならわざわざ掲げるまでもない当然の帰結であるはずなのです。ハッキリ申し上げれば、福音主義によって立つクリスチャンは聖書から正しく学ぶなら、ものの考え方として、正しいキリスト教哲学をもつはずなのです。そして、その正しいキリスト教哲学に基づいて正しいキリスト教倫理を持つはずなのです。そして、その正しいキリスト教倫理に基づいて、正しい政治思想をもつはずなのです。そして、いかなる立場のくりすちゃんであっても、その思想は当然に保守的、中道的、社会自由主義的な「キリスト教民主主義」の範疇に落ち着くはずなのです。が、日本においては自称福音派の牧師が反キリスト教的で、無神論的世界観を持つ政党と共闘を呼び掛けたりする暗澹たる事態が進展しています。これは、日本にクリスチャンが少なく、特に福音派は社会問題や政治問題を取り扱うようになって日が浅いために、層が薄く、ごく少数の牧師やクリスチャンメディアの編集者が不勉強なまま、社会問題や政治問題を論じているため、福音派でありながらその論調は福音主義的な政治思想に立脚しない左翼思想の独壇場になってしまっています。(これは福音主義の組織神学上も、伝道に関する実践神学上も極めて大きな問題を内包しています。)本紙がそのことを指摘することで、少しでも福音派の主要なクリスチャンメディアがキリスト教民主主義に立脚した穏当な論調に回帰されることを願ってやみません。

宗教と政治思想の関係

さて、本紙ではキリスト教福音主義の立場に立って政治や社会について論評をすることとしました。すると、読者諸氏の中にはそれは政教分離に反するのではないですか?とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。

確かに、日本は憲法20条で政治と宗教を厳格に分離する政教分離原則を掲げる国家です。しかし、それは「国家が宗教に対して特権を与えたりしてはいけない」という意味であり、宗教観をもった個人が政治家になって政治を動かす以上、その影響を完全に排除することもできないし、また排除してはいけないはずなのです。

 たとえば、禁酒禁煙を詠う宗教を信じている政治家はおのずとたばこ税や酒税の増税をする方向に向かうでしょうし、イスラム教徒の政治家なら豚肉の輸入関税強くいうでしょう。日本においても性道徳に厳格な態度で臨むクリスチャンが中心となって廃娼運動が展開されて売春防止法が制定されたり、浄土真宗の僧籍を持つ人が法務大臣になったがために、その間死刑執行が行われなったことなどがありました。このような事例からみてもわかるように、政教分離とは国家が宗教に影響を行使してはならないという意味であり、とある宗教を信じた政治家が、その倫理観にもとづいて政策を左右することは往々にしてあることです。むしろ、政治家の政策決定にかかる政治信条は、その政治家の信じている宗教に決定的に影響されるといっても過言ではありません。

では、本来、福音主義プロテスタントに立つキリスト者はどのような政治思想にたつのでしょうか? 続く

 

日本クリスチャンジャーナル創刊

2月11日は日本のキリスト教界では「信教の自由を守る日」として定められています。この日にブログ「日本クリスチャンジャーナル」を創刊できることを大変喜んでいます。

このブログをクリスチャンジャーナルと名付けたのは、jounalという言葉には日記という意味があります。日本に住むクリスチャンとして感じたことを論評し日記、日誌のような形で書き遺していけたらと考えています。そして、jounalにはもう一つ定期刊行物という意味もあります。できれば、この日誌を大きく実らせて日刊紙のようにしたいとも考えています。日本に住むクリスチャンとして、このブログというメディアを使って、日本のキリスト教界とクリスチャンメディアの健全な発展を願っています。

ブログを進めていく上で、3つの指針を定めます。

  1. 福音主義
    指針の第一は福音主義です。個人的な見解をブログに載せる以上、どこまでいってもそれは個人的な見解ではあるのですが、できるだけ、歴史的正統的プロテスタントの見解にそって齟齬のないように論評を進めるよう心がけます。
  2. キリスト教民主主義
    指針の第二はキリスト教民主主義です。これは欧州や米州ではきっちりと確立された一つの政治潮流です。そして、中道思想、保守思想、社会自由主義的なものを含有する思想です。
  3. 社会や時事に関して積極的に論評する。
    指針の第三はできるだけ教会外のことを取り扱ってみるということです。第一に掲げた「福音主義」は教会内の出来事や聖書の解釈に関する問題に関してはめっぽう強く、情報発信をするのですが、現代社会に対してはその発表も、対応も遅く鈍いということがありました。かつて、教団内の社会派と呼ばれる人たちが教会派を揶揄する時言われていたことです。本紙では、教会外の一般社会のことを取り扱うことで、包括的な宣教に役立てれればと願います。